1996年11月。大蔵省で私を待ち構えていたのは、企業財務課のT課長補佐、証券業務課のN課長補佐など5名。
「素晴らしい仕組みですね!」
と驚いたことにTさんからは、お褒めの言葉。
企業財務課では、証券会社に禁止していた未公開株式の勧誘を認める規制緩和を考えていて、その際に義務付ける情報開示の参考になるといいます。
確かにディー・ブレインが始めた「インターネットベンチャー投資マート」では、財務情報を公認会計士がレビュー。事業計画とリスクを開示するなど、画期的な試みを行なっていました。
しかし、喜んだのも束の間、今度はNさん。
「どういう仕組みか説明していただけますか?」
証券業務課は証券会社の管理をする部門。
要するに証券免許が必要な株式の募集業務を潜りでやっているのでは?との疑念のもとの質問です。
「ディー・ブレインの仕事はディスクロージャーのコンサルティング。株式の募集は発行会社自らが行っています。」
と答えると、
「上手いことを考えましたねー!それだったら証券取引法違反とは言えませんね。」
そう言いいます。
ほっと胸を撫で下ろしました。
その時です。驚くべき発言がNさんから飛び出したのです。
「このままやっていると他人からは、証券業務をやっているかのように見えますよね。これでは折角の良い仕組みも健全に発展していかないのでは?正々堂々と証券免許を取って、証券会社としてやろうとは思わないんですか?」
今でこそ、様々な証券会社が生まれてはなくなっていきますが、この時はまだ山一証券も残っていた時代。実に30年間、銀行の子会社を除いて、新設の証券会社は生まれていなかった時代です。
「証券会社ですかー。そんな大それたことは考えていません。」
咄嗟にそう応えてしまった私でしたが、その後、金融ビッグバンで規制緩和が進むというニュースを聞いて、思い直します。
ひょっとして証券会社も作れるようになるのかも?
1週間後、思い切ってNさんに電話します。
「先日のお話し、証券会社って作ってもいいんでしょうか?」
と単刀直入に聞くと、
「出縄さん、証券取引法の第3章を読んでみてください。証券会社という章でして、証券免許の申請手続きが書いてあるんです。日本国の法律に書いてあるんですから、その通りやれば作れるのは当たり前でしょう・・・。」
30年の長きに渡り、行政規制で門前払いをしてきた証券会社の新設。
その方針が大転換された瞬間でした。
それから物事は急速に展開。証券会社の新設を決意した私は、早速、事業計画を作成して大蔵省と協議します。
発行市場と流通市場の機能を備えた未公開株式市場の運営を専業とする証券会社。画期的なプランです。
1996年12月には、(株)ディー・ブレインは、再び「拡大縁故募集」で、株主を募集。公認会計士の仲間を中心に約200名が参加。増資額は9千万円。そのうち6千万円を新設の証券会社、ディー・ブレイン証券(株)に出資します。さらにディー・ブレイン証券は、この事業に関心を持つ商社や保険会社から出資を集め、設立時の資本金は1億8千万円となりました。
この一連の動きを日経新聞が翌年1997年1月に1面トップで報道。
その年の7月7日。30年ぶりに新設された証券会社、ディー・ブレイン証券の記者会見には50社を超える報道機関が参加しました。
やがて日本証券業協会が「グリーンシート」と名付け、本格的な「拡大縁故募集」の舞台となる、中小企業向け証券市場の幕開けです。
(つづく)
DAN ベンチャーキャピタル 株式会社
代表取締役 出縄 良人(公認会計士)
(プロフィール)